最近、この修道院でよく見かける十代後半くらいの少女。
ここのところ毎日祭壇で熱心に祈りを捧げている。


何を祈っているのかは知らぬが


マイエラ修道院の院長であるこの私が言うのもなんだが


―――――神なんて、いるわけがないのに。




「……。」




ふと、少女の綺麗な白い腕に見えた傷。

料理の際にドジを踏んで包丁を掠めてしまったのだろうと思い、気には留めなかった。


私は少女の横を無言で通り過ぎ、何事も無かったかのように宿舎へ向かった。








翌日、少女はまた祭壇の前で熱心に祈りを捧げていた。
これで10日目になると思う。

ふと、少女の腕を見れば、昨日より傷がいくつも増えていた。
ドジを踏んだにしては不自然すぎる。

「その腕はどうした」

思わず、話しかけてしまった。
なんとなく気になったのだ。

少女は、祈るのを中断してゆっくりとこちらを見た。
一瞬だけ見えた、少女の虚ろな目つき。

しかし、少女はすぐに表情を変え、にこにこと笑って答えた。

「あ…院長様。えと、これですか?」

相変わらず笑いながら。
少女は自分の傷だらけな腕を見た。

「そうだ。」

おかしなヤツ…としか思えない。
自分の傷だらけの腕を見て笑っているなど、おかしなヤツとしか言いようが無い。

「切りました。自分で。」

少女は笑顔のまま。

「自分で切っただと?馬鹿げているにも程がある。」

どうして自分で切る必要があるのか。
自分を自分で傷つけて、何の得がある?

まったく馬鹿げている。

「…自分を醜くして、私は私の婚約者との婚約をどうしても破棄したいんです。
両親が・・・勝手に決めた、会った事も無い婚約者との結婚式が近いのです。
愛してもいない人と結婚なんて私にはどうしてもできません…。」

院長様には関係の無いお話でしたね。

そう言って少女は苦笑した。

この娘には婚約者が居るのか。
ということは、この少女の親は権力者か何かか。

…少女の言うとおり、私には関係の無いことだ。
だが、折角綺麗な肌をしているのにそれを自分で傷つけるのはどうも気に入らない。

このような、ドニの酒場にいる女たちに比べて全く色気もない少女だが
何故だか、放っておくのに気が引けた。

院長の仕事も思っていたより少ない。
暇つぶしに、少女の問題を解決してやろうか。

「そんなことで婚約が破棄できるとでも思っているのか?」

「あ、そう言えば。」

少女は「気づきませんでした」と頭を掻いた。

この少女は、何の不自由も無く育てられてきたのだな。
…私も、あいつさえいなければこの少女のように…。

「…名はなんという。」

といいます。」

「ならよ。この私がお前の婚約破棄を手伝ってあげよう。」

私のこと一言に、の表情がぱっと変わった。
先ほどとは比べ物にならないくらい、輝いている。
心の底から嬉しそうな笑顔。

「あ、ありがとうございます!院長様!」

こんなことで、頭を下げるなんて。

「院長ではなく…マルチェロでいい。」

私はぼそりと呟いた。
はそれが聞こえたのか、嬉しそうに「はい」と言って微笑んだ。











私は自分の部屋にを入れ、ベッドの上に座らせた。
ベッドは、仕切りがあるため万が一騎士団の団員が突然入ってきても
を見られることは無い。

本来、宿舎は騎士団と修道士しか立ち入ってはならない決まりがある。
なんの関係の無いを宿舎に入れたことは、絶対に秘密にしなくてはならなかった。

「まず、神頼みなどしても無駄だ。神は見ているだけで何もしてくれはしない。
そもそも、神なんてものは心弱き人間が作り出した空想。本当はいないのだ。」

「そうなんですか…。」

修道院の院長らしくない発言だと思ったのか、は眉を顰めた。

しかし、これが現実だ。現実逃避し、神に縋って祈る暇があるならば
自分の力でもがけ。もがいて、もがいて、結果を得る。

私はそう何度も自分に言い聞かせてきた。
そして、私は孤児から聖堂騎士団団長の座を勝ち取り、今ではマイエラ修道院の院長だ。

「結婚式はいつだ?」

「明後日です」

「明後日、だと?」

「はい。明後日です。」

真顔で答えるに、私はため息をついた。

結婚式が明後日とは、ずいぶんと急なものだ。
しかし、結婚式を明後日に控えているのに会った事も無いとは…。

「そうか。…では、どうやって破棄するかを早く考えてしまわねばな。
…そういえばには好きな男はいるのか?」

に好きな男が居れば、そいつを利用して破棄すればいい。
カケオチなども、いいかもしれんな。

「い、いません。」

の即答に、私の案は没決定になった。
残念だが他の案を考えなくてはならなくなる。

「…家出は無理か?」

「すいません。私、家からあまり出してもらえなくて。
今もこうして修道院に来るのがやっとという感じで。」

「そうか。」

余程大切に育てられているのだな。
…こうなったら、どうしようもないのではないだろうか?

「あの、真面目に考えてくださって…本当に有難う御座います。」

突然、が申し訳なさそうに言った。

「いきなり何だ?」

「もう、いいです。私が我侭を言わなければいい問題だと思うので。
多忙なマルチェロさんにもあまり迷惑はかけたくないので…。」

苦笑いを浮かべ、はため息をついた。

私では、の力にはなれないのだろうか?
本当に諦めるしかないのだろうか?
他に、方法は…。

「はぁ。婚約者がマルチェロさんだったら良かったです…なんて。」

頬を紅く染めながらぼそりと呟いた
その言葉が、私の胸を高鳴らせた。

私の中の血液が、沸騰したのかと錯覚するほどにドクドクと波打つ脈動。

この感情…。

私は…。



気づいたらは私の腕の中にいた。

彼女の、細くて柔らかい体。
シャンプーの匂い。

「マルチェロ…さん…?」

じっとしていて動かない
怖がらせてしまったのだろうか?

私は一旦を離し、の様子を窺った。

「突然すまなかったな。」

「あ、いえ…ちょっとビックリしちゃって硬直しちゃいました」

私から視線を外しているの様子からわかる。

相当恥ずかしかったのであろう。

しかし、私も落ちたものだな。
ドニの酒場では抱きつかれるなど日常茶飯事であるのに
いざ私からを抱きしめようとしただけでドキドキしてしまった。





「マルチェロ様」

突然、部屋の外から声が聞こえた。
そして、この部屋のドアが2回ノックされる。

まずい、人が来た。

私は即座にをベッドに押し倒し、自らもベッドに倒れこんで布団を被った。
を抱きかかえて、人が立ち去るのをひたすら待つ。

ドアの開かれる音がした。
ひたひたと歩く、人の足音。

「…あれ?いらっしゃらないのかな。書類…机の上に置いておこう。」

足音は私たちから遠ざかる。
そしてドアが閉められた音を確認して、私は布団から出た。

勢いで押し倒してしまったを起こす。

「大丈夫か?」

よく見れば、衣服に乱れが合った。
肩のところから、下着が見えてしまっている。

私は慌てての衣服を整えてやった。

「…だ、大丈夫、です!!」

顔を真っ赤にしながらは何度も首を縦に振った。
何だか、彼女を見ていると心が安らぐ。

が愛しく思えた。

は私が絶対に護ってやりたい。

他の男に、渡したくは無い。

ああ、そうか。まだ手はあるではないか。
が、先に結婚してしまえばいい。
そうすれば、婚約は破棄される。

簡単なことだ。

さえよければ…私の妻に迎えたいのだが」

「へっ!?」

思った通りの反応だ。
そんなところも、また愛しい。

が結婚してしまえば、婚約も何もなくなる。どうだ、私と結婚するか?」

「いいんですか?」

「私から言い出したことだ。あとは自身が決めることだろう。」

しばらく、考え込む
そして、結論が出たのか優しく微笑むと、私の頬に手を当てた。

「嬉しいです。こんな不束者ですが、よろしくお願いします」

の答えを聞いて、思わず口元が緩んだ。そして私は微笑む。

「ああ、こちらこそ」







式は明日

ここ、マイエラ修道院にて。







世界最速プロポーズ








(マルチェロさん。私はやっぱり神様はいると思うの。 だって、こうして婚約を破棄できたと同時に、幸せも授けてくださったのだから)




執筆:04年12月30日