勇気のカケラ
好きなんだから好きって言ってしまいたいのだけれど、私にはそんな勇気は無い。とんでもなく自分に自信がない。想いを伝えたところで、彼が私を受け入れてくれるとは思えなかった。
自分が彼に恋をしているのだと気付いたのは、もうずいぶんと前。その日は雨が降っていた。土砂降りだった。久々の雨に人々は喜んでいたのだけれど、私はといえば気分がどんよりだった。雨の降っているにも関わらず、諸葛亮先生のところに巻物を持ていけとお使いを頼まれたのだ。持っていくのには、もちろん外に出なくてはならない。だけど外はそれはもう容赦のない土砂降り。天よ私は見放されたのか。
案の定、私はびしょ濡れになって巻物を死守しつつ諸葛亮先生のもとへ巻物を届けた。巻物を無事に届けることができたのはよかったけれど、服や肌が濡れてとても寒くて。そのまま帰ろうとした私を引き止めて、温かい布と飲み物をくれて
雨が止むまでここにいてはどうかと言ってくれた姜維殿。
そんな優しい彼に、私は恋をしてしまったのだ。
姜維殿に恋してからは、姜維殿を意識しすぎてしまって話すだけでも緊張してしまう。以前は緊張なんかしないでちゃんと話せてたのに、姜維殿を前にすると胸がはちきれそうになる。
声のトーンは大丈夫か。舌、噛まないようにしなくちゃ。平静を装えているか。変なこと、口走らないようにしなきゃ……そんなことばかり考えてしまう。
つまりは姜維殿によく見られたいのだけれど、意識しすぎて逆に上手くいかないのだ。
こんなことになってしまうのなら、恋なんかしなきゃよかったとさえ思う。
※ ※ ※ ※ ※
ある日、私は姜維殿と城下の民の様子を見に行く事になった。
民の生活状態を知ることで、より良い国創りをすることが目的だと、諸葛亮先生はおっしゃっていらしたけれど――だけど、よりにもよって姜維殿と二人きりでさせることないじゃないですかぁ。
私の心臓が飛び出して死んでしまったら諸葛亮先生の責任です。
そう思った時、ふとある考えが浮かんだ。
まさか諸葛亮先生は私が姜維殿のことが好きだと気付いていてわざと意地悪するようなことを……? いやいや。諸葛亮先生に限ってそんなこと。いやいやいやありえる。ううっ謀られた!
……考えを改めよう。諸葛亮先生はさりげなく私にチャンスを与えて下さったんだ。このチャンスを活かして姜維殿にアピールしなければ。
――絶対に失敗はしたくない。頑張れ、私っ!
一人拳を握り、息をついた私だった。
「あの、殿」
「…………」
「…殿?」
姜維殿がぽんと軽く私の肩を叩く。私はそれに気付くと慌てて姜維殿に頭を下げた。
「す、すいません! ぼうっとしていて!」
ざわざわと民たちが私と姜維殿の横を通り過ぎていく。人が多くて姜維殿についていくのがやっとだった。
姜維殿は私の手を引いて「一休みしましょうか」と言って小さな路地に入っていった。
姜維殿の手が! 私の手に! 触れている! という事実に私は目を回す。
小さな路地には、私と姜維殿しかいなく、元来た道からはがやがやと民たちのの賑やかな声が聞こえてくる。しかしここは本当に静かで、まるで別空間に来たような感じだ。
「考え事しながら歩くと転んでしまいますよ?」
「ご、ごめんなさい」
私が謝ると、姜維殿はぶんぶんと首を振った。
「あ、いや……。あの、今日は視察についてきて下さりありがとうございます」
首を振った後、恥ずかしそうに言う姜維殿の言葉に私は疑問を抱いた。
私は諸葛亮先生に頼まれたのであって、姜維殿もまた諸葛亮先生に頼まれたのではないのだろうか。
「いえ、諸葛亮先生に言われて来たのですから姜維殿は――」
「違うんです、今日は私が丞相に殿もついてくるように言ってもらったんですよ」
姜維殿の言葉に、私は一瞬頭を打たれた感覚に陥った。
それは、姜維殿が私と一緒に視察したかったからという意味? 諸葛亮先生の策略ではなく?
「どうして、ですか」
期待してしまってもいいのだろうか。
そう思った次の瞬間、姜維殿は私の片手を取った。
「私、姜伯約は――殿、貴女のことがずっと好きでした」
頬を赤く染めつつ私を真剣に見つめてくる姜維殿はいつもに増して凛々しく見える。ドキンドキンと、私の胸の高鳴りが姜維殿に聞こえてしまいそう。
私はきゅっと胸の前で片方の拳を握った。
「ゆ、夢みたいです。私も姜維殿のことが好きでしたから」
「はー……っ」
私の言葉を聞いた姜維殿が大きなため息をついた。
もしかして、早くも嫌われてしまったのか、それとも冗談だったのかと不安になる。
しかし、姜維殿は微笑みながら私を抱き寄せた。
「嬉しいです。もしかしたら嫌われているのではないかと思っていました。殿は私といるといつも辛そうだったので」
「ち、違います! あの、姜維殿の前だと意識しすぎて緊張してしまって……!」
今、姜維殿に抱きしめられているせいで姜維殿がどんな表情をしているかはわからない。
だけど、姜維殿の声の調子からして、きっと本気で喜んでくれているんだ。
「可愛いです、」
突然呼び捨てで呼ばれて驚いてしまうが、私は姜維殿の背中に手を回して呟いた。
「そんなことないですよ、姜維殿。私は弱いんです」
私に勇気があったなら、もっと早く貴方に想いを伝えられたのに。
「いいえ、貴方が緊張してくれたおかげで、貴女に想いを伝える決心がつきましたから。貴女が私を嫌いなら、想いを伝えて砕けてしまえと思いました。でも、貴女は私を受け入れてくれた」
――私は今、天下一幸せです。
耳元で呟かれた姜維殿の言葉に、私はくらりとした。
執筆:05年11月28日
修正:20年8月4日