――気が付いた時、私の手には古びた剣と、自分の名前の記憶しかありませんでした。

 日差しはあるのに、北風が吹いてうすら寒い日。オベロン社ノイシュタット支店前で私は空を仰ぎ見ながら膝を抱えて座っていた。私はここに来る前にどこにいて、どのように過ごしていたのか思い出せないでいる。3日ほど前の、それ以前の記憶がない。どう頑張って思い出そうとしても思い出せない。思い出せるのは自分がという名前だということ。持っているものは、ずいぶんと古びた剣だけ。お金なんて持っていないから、食べ物すら買えずにいる。
 ――どうしてこうなってしまったのだろう。どうして何も思い出せないんだろう。
 思い出せない苦しみと誰も助けてくれない恐怖。そして私のお腹の中で壮大に奏でられるオーケストラ。ただし、グーグーという単調な音しか出てこない。寂しいものだ。あまりの空腹で身体を起こす事さえもつらい。このまま私は飢え死にするのだろうか。
 どうやらこの町は貧富の差が激しくて、私のような孤児達が何人もいる。中には盗みを働いて食い繋いでいる者もいるけれど、私はもうそんな気力すらない。そろそろ限界かもしれないと思ったそんな時だった。

「こんな場所で何をしている?」

 突然声を掛けられた。ゆっくりと見上げれば、知らない男が私を見下ろしている。隣には私より少し年上くらいの綺麗なお姉さんが心配そうにこちらを見ていた。身なりからして二人は相当高貴な身分だと窺える。

「――誰?」

「私はヒューゴ・ジルクリスト。オベロン社総帥だと言えば、言いたいことはわかるだろう?」

 ヒューゴさんはチラリと「オベロン社」と書かれた店の表札に視線を向けた。営業の邪魔になるから立ち退けとでも言いたいのだろうか。残念ながら、もう立てるほどの体力は無い。威嚇になるかはわからないけれど、腰元にある剣に手を伸ばす。カチャっと音を立てれば、ヒューゴさんはそこに視線を向けた。

「その剣は君のものかね?」

 ヒューゴさんは私の剣を見つめながら眉間に皺を寄せた。私が記憶をなくす前から持っていたのだろうこの古びた剣。今、私が持っているということは、私のものなのだろう。

「……私のもの」

「そうか」

 ヒューゴさんは私と、私の剣を見て、一瞬だけ口の端を上げた。

「剣を持っているという事は、多少は剣技も身についているのだろう? 私の家に来ないかね? 君には私の娘になってもらいたい」

 ヒューゴさんの提案に、私は目を丸くする。

「ヒューゴ様! よろしいのですか!?」

 ヒューゴさんの隣にいたお姉さんも驚愕の表情を浮かべていた。

「丁度、リオンに寂しい思いをさせてしまっていると思っていた。妹ができれば少しは寂しくはあるまい」

「でも……こんないきなり」

 お姉さんの言うとおりだ。何で突然。ヒューゴさんの事情はよくわからない。でも、このヒューゴさんについていけば生きることが保障される。このままこんなところにいても本当に飢え死ぬだけ――理由なんて、どうでもいい。
 ――私は、生きたい。

「すみません、私には記憶がなくて……自分が剣を使えるかもわからないんです。それでもよければ」

 私の言葉に、二人は目を見開いた。

「成程……しかし構わん。剣についはこれから叩き込めばいい。君の名前は?」

です」

 こうして私は古びた剣とここ3日間のことぐらいの記憶だけを持って、ヒューゴさんの娘になった。



※ ※ ※ ※ ※



 ヒューゴさんの家はセインガルドの国のダリルシェイドというところにある。船に乗ってダリルシェイド着くまでにヒューゴさんから色々な話を聞いた。ヒューゴさんには一人息子がいて、その人が私に兄になるということ、これから私は剣技を身に着けてその兄の補助役として国に仕える者になってほしいという事。
 そして、ヒューゴさんの家に着いて私は驚愕した。大きなお屋敷。大きなお庭。これから私はここで生活していくのかと、そわそわしてしまう。

「リオン! リオンはいるか!」

 私の兄になる人の名前はリオンというらしい。年は恐らく私と同じくらいだと、ヒューゴさんが言っていたのを思い出した。どんな人なんだろう、優しい人だったらいいなぁ。
 そう考えているうちに、少年の声がした。

「お呼びでしょうか、ヒューゴ様」

 部屋から出てきたのはとても綺麗な少年。まだ幼さの残る顔立ちと声変わりしていない高い声。可愛くて綺麗で、一見してみれば少女のようにも見えた。
 でも、どうして父親のことを様付けで呼んでいるのだろう。「お父さん」って、呼ばないのだろうか?

「レンブラントから聞いているであろう? 今日からお前の妹となるだ、仲良くしてやれ」

 私はヒューゴさんに背中を押されてリオンの前に立たされる。リオンは私をじろじろと見ると、怪訝そうに目を細めた。リオンという少年は、いかにもプライドが高そうなお坊ちゃまといった感じだ。優しさは、あるの、だろうか……。

「は、はじめまして。っていいます。よろしく、お願いしま、す……?」

 途中まではリオンの顔は無表情だったものの、だんだんと眉がつりあがって行くのに気づき、私は勢いをなくした。めっちゃ不機嫌ですね。 なんかコミュニケーション取りづらいんだけど。

「僕の妹? どういうことですか、ヒューゴ様」

 握手をしようとしていた私の手を無視し、リオンは鋭く私を睨んだ。そりゃあ、いきなり見ず知らずの他人が自分の妹になるなんて言われたら「はいそうですか」ってなるわけないけど。
 ヒューゴさんはリオンの問いかけに答えることなく、ニヤリと笑った。

「そういえば剣の腕をまだ見ていなかったな。、庭でリオンと剣を交えてみなさい」

「……え?」

 ヒューゴさんは突然恐ろしいことを言いだした。ちょっと待って。リオンは剣が使えるんでしょう? 私は剣が使えるかどうかもわからないのに、いきなりですか。

「ついてこい」

 いかにもやる気満々なリオンの表情。私は剣を使えるかわかりませんなんて言い出せる雰囲気ではなく、私は黙ってヒューゴさんとリオンの後をついて歩いた。ヒューゴさん、恨みます。



※ ※ ※ ※ ※



 リオンと私はそれぞれ自分の剣を腰に下げていた鞘から抜き出した。自信満々そうな表情をしたリオンが私の前に立つ。当の私はというと、思い出せる限り実戦の経験が無いため、情けなく震えていた。

「では、始め!」

 ヒューゴさんが叫ぶ。その瞬間、リオンは私を睨みつけて、前へ出た。

「一瞬で片付けてやる!!」

「き……きゃあああああああっ!!」

 リオンは本気の目をしていた。やだやだ殺される! 殺される!
 リオンが私の後ろを取り、そして剣を私の急所に当てようする。私は慌てて逃げ出したけれど、リオンが回りこんでくる。

「まるで素人じゃないか」

 その通りでっせ!しかしリオンは遠慮なく剣を振り回してくる。この鬼畜野郎! やられる――そう思った瞬間、私の身体が勝手に動き出した。不思議に思っていると、いつの間にかリオンの剣を自分の剣の柄で薙ぎ祓っていた。そして、リオンの手にダメージを与える。一瞬だけ、リオンが怯んだ。

「何――!?」

 私は自分の動きに自分で驚いてしまい、呆然としてしまった。その間にリオンは即座に剣を握り直し、私の首筋に剣を向けた。

「ひっ……!?」

 これで私は身動きが取れなくなった。

「――リオンの勝ちだ」

 ゆっくりと、ヒューゴさんは私たちの方に寄る。私と剣を見つめた後、口角が上がる。私は首を傾げながらヒューゴさんを見ていた。

「ヒューゴ様! セインガルド王が御呼びです! 至急城へお急ぎください!」

 突如ヒューゴさんの元に兵士がやって来た。ヒューゴさんはオベロン社総帥であるとともに王様の側近をしていると船の中で聞いた。やっぱり偉い人なんだと思っていると、ヒューゴさんが踵を返す。

よ、あとは自由にしてて構わん。リオン、お前もしばらく休んでいろ」

 ヒューゴさんはそう言い残して、兵士とともにセインガルド城へ向かった。それを見送った後、私は慣れない手つきで剣を鞘に収める。

「おい」

 リオンが私の肩を掴んだ。

「な、何?」

「何であの時攻めてこなかった。あれだけの時間があれば攻められただろう? 本当に素人なのか?」

 とても機嫌が悪そうだ。
 確かに、あの茫然としてしまった一瞬に攻めていれば私が勝っていたかもしれない。でも、どうしてあんな動きができたのか、私にもわからないのだ。無意識だったのだから答えられるわけがない。攻めるとか、そんなことを考えることもできなかったくらい自分でも驚いたんだ。

「わ、わからない。私、記憶がないから……もしかしたら記憶が無くなる前に剣を使ってたのかもしれない、かな?」

「……記憶喪失、か」

 目を細めたリオンは掴んでいた手を離してスタスタと玄関へ行ってしまった。

「――はぁ、仲良くできるのかなぁ」

 急いでリオンの後を追いながら呟く。
 いつか、きっと仲良くすることができる日が来るといいと思う。



執筆:03年3月16日
修正:13年9月14日